島に咲く花 〜除虫菊〜 しまにさくはな 〜じょちゅうぎく〜
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<問合せ先>
  因島総合支所 産業振興課
  TEL 0845−26−6212
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  除虫菊は、キク科の多年草で
  直径5センチメートルほどの白い花をつけます。


  大正時代の初めごろから、蚊取り線香の原料として栽培が始まりました。
  最盛期には、栽培面積が約350ヘクタールにもなり、島を白く染めるほどでしたが、化学薬品の普及により、年々栽培量は減っていき、現在は、種子の保存と観光用として、市内3カ所で栽培されています。

除虫菊の伝来  ●白いじゅうたん   ●時代の流れとともに  ●除虫菊を守り育てる人々

 除虫菊の伝来
 除虫菊が日本に伝わったのは、明治19年。原産地はバルカン半島ダルマチア地方です。明治8年ごろ、紀州有田郡の上山英一郎氏(大日本除虫菊株式会社「金鳥」の創業者)のミカン園を視察に来たアメリカ人が珍しい植物の交換を申し入れ、明治19年に、オレンジの苗とともに除虫菊の種子を送ってきました。
 上山は、その適地を探しまわった結果、向島町「干汐」に、日本で初めて除虫菊を植えました。発祥の地となった向島町には、故上山英一郎氏を顕彰し、「除虫菊神社」が昭和5年に創建されています。
 また、もう一つはオーストラリアの日本領事ゲオルト・ヒュウロット氏が日本に除虫菊が適することを知り、種子を日本の農商務省(当時)に渡し、和歌山県で栽培を始めたとされています。


 白いじゅうたん
写真  その後、北海道と瀬戸内海地域にそれぞれ主産地が形成されました。
 北海道では、大正9年ごろから第二次世界大戦の終わる昭和20年ごろにかけて栽培が盛んに行われましたが、 栽培された地域は他作物の栽培が困難な強酸性の開墾地がほとんどでした。
 栽培法も、一度植え付けた株から数年にわたって花を採る、いわゆる古株利用法だったため、収穫量が少なく、戦後の食糧増産政策とともに他作物に変わっていきました。昭和30年以降、生産量は急激に減少し、現在はほとんど栽培されていません。

 一方、瀬戸内海地域では、明治30年ごろから栽培が始まり、急傾斜地を中心にしだいにその面積は増えていきました。中国、朝鮮、南洋はもちろん、アメリカ、ドイツ、オーストラリアにまで市場を広げ、 一時は、国の重要な輸出品となり、日本が世界一の生産国であった時代もありました。栽培面積が最も多かったのは、昭和12年から15年ごろです。
 その後、ドイツが合成化学による殺虫剤の発明をしたため、やや下火になってきましたが、第一次世界大戦によりドイツの化学薬品の輸入が途絶え、除虫菊は再び日の目を見るようになり、急激な価格上昇も起こしました。 このころの重井町は、すべての畑が除虫菊の花で白一色となり、松が生えていた白滝山のてっぺんあたりを除いて、見渡す限りの山という山は除虫菊畑でした。目の前の、細島、小細島にも舟で出かけて栽培していたそうです。

【参考】因島における栽培面積
大正4年10ha
大正6年100ha
昭和15年
(最大)
350ha重井町(210ha)
昭和38年
(戦後最大)
270ha
昭和45年37ha(重井町34ha)
昭和47年8ha
平成21年20ha(重井町馬神)、24a(フラワーセンター前)
3a(白滝フラワーライン展望台)


 時代の流れとともに
 第一次世界大戦が終わると、再びドイツから合成殺虫薬品が輸入されるようになりました。価格は低下し、栽培面積は減少しはじめ、第二次世界大戦後はさらに、食糧増産のために他作物への転換がなされ、昭和21年から栽培は激減しました。
 昭和28年から39年にかけては、それでも、蚊取り線香や農薬の原料として、再び栽培は増加していましたが、化学合成殺虫剤(合成ピレトリン)が開発され、また、安価で良質なケニア産のエキス粕(蚊取り線香の増量剤)の輸入増加などもあり、昭和47年以降は、ほとんど姿を消しました。
 そのような中で、国内の生産がストップするまで栽培が盛んだったのが、この瀬戸内海地域なのです。

【参考】瀬戸内海地域における除虫菊栽培の好適条件
  1. 排水の良い傾斜地が多く、開花期の降水量が少ない
  2. 栄養生長に最適な春秋の期間が長いため、播種後開花期にいたる生長期間が比較的短い
  3. 冬の気象条件が花芽分化に最も適し、花芽数及び収穫量が多い特徴がある
  4. 開花期が一斉であるため、収穫が容易で効率的である
  5. 花崗岩系のやせた傾斜地が多いが、除虫菊はこうした悪い土壌条件にも抵抗力が強く、他の作物に比べ高い収益を上げることができた
  6. 高度輪間作物体系の確立(麦、除虫菊、トロロアオイ、甘しょの輪作)


 除虫菊を守り育てる人々
写真  現在では、観光資源として因島重井町馬神(20a)、フラワーセンター南側(18.8a)、白滝フラワーライン展望台(3a)、の合計約41.8aで栽培されています。毎年シーズンになると、決まってテレビ、新聞社が取材に訪れます。
 この除虫菊を守り育ててきた村上富夫さんは、畑から見える自分の家を指さしながら、「私の部屋の窓から、この畑を見ることができるんよ。この時期、たくさんの人がやって来て花を眺めたり、写真に納めたりする姿を見ることができて、とても楽しく、うれしい。」と話してくれました。
 余計な草を抜く、肥料をやる、ダニ剤を散布する、歩きやすいように道を作り直す・・・。さらに、段々畑の一番上の土地の草や木を抜いて、写真を撮る人のためのスペースまで作りました。「肥料も草取りもほとんど1人でやっとるよ。仕事というより趣味。市外からもたくさんの人が見に来てくれるんよ。」と笑顔で応えてくれました。
 かつて、この地方の島々を白一色に染めた独特の景観は、除虫菊を愛する人たちによって、今もその面影を残しています。

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