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圓鍔勝三について

印刷用ページを表示する掲載日:2022年5月24日更新
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圓鍔勝三仁王像制作風景写真

圓鍔勝三、彫刻の世界

圓鍔は、幼年時代から決して器用な方でなくむしろ不器用であったと述懐しています。16歳で京都へ行き、石割秀光に弟子入りしたのちも、努力と勉強熱心さにより、自己を形成していきました。
23歳で上京し、澤田政廣に師事して、大正末から昭和の戦前にかけて起こった木彫界の新たな運動に加わり、明治以降の失われかけていた日本の木彫をよみがえらせました。圓鍔芸術の特徴は、木彫を主流としながらも様々な素材を使い作品を制作していることです。このことが、自由な表現の多様性を生み出しています。また作品は、夢とロマンに溢れ、雄渾に満ちた独自の境地を拓き、たえず平和を希求する心と生きることへの愛着が現れています。
少年時代を過ごした、この御調の地での思い出が圓鍔作品のバックボーンとなっているようです。豊かな自然と細やかな人情、私たちが忘れかけている感情を思い起こしてくれる、そんな世界にふれることができます。

略歴

明治38年 (1905) 広島県御調郡河内村(現在の尾道市御調町)に生まれる。本名は勝二。
大正10年 (1921) 河内尋常高等小学校高等科を卒業し、京都の彫刻師石割秀光先生の内弟子となる。
15年 (1926) 京都市立商工専修学校並びに関西美術院に学ぶ。
昭和 3年 (1928) 上京。日本美術学校に入学。
5年 (1930) 第11回帝展に「星陽」を出品、初入選。
7年 (1932) 日本美術学校卒業。澤田正廣に師事。
14年 (1939) 第3回文展に「初夏」出品、特選。
21年 (1946) 第2回日展に「砂浜」出品、特選。
22年 (1947) 第3回日展に「しろうさぎ」出品、特選。
25年 (1950) 多摩美術短期大学教授。第6回日展に「土器を持つ女」出品、特選。
26年 (1951) 日展審査員となる。以後12回。
28年 (1953) 多摩美術大学教授、就任。
35年 (1960) 勝二を勝三と改名。
37年 (1962) 日展評議員となる。
40年 (1965) 第8回日展に「旅情」出品、文部大臣賞受賞。
41年 (1966) 「旅情」にて日本芸術院賞受賞。
43年 (1968) 日本美術家連盟委員となる。日本彫塑家協会委員長となる。
45年 (1970) 日本芸術院会員となる。
46年 (1971) 日展常務理事に就任。紺綬褒章受章。
51年 (1976) 勲三等瑞宝章受章。
55年 (1980) 日本彫刻会理事長に就任。神奈川県文化賞受賞。
56年 (1981) 日展顧問。御調町名誉町民第1号となる。
57年 (1982) 文化功労者に列せられる。
63年 (1988) 文化勲章を受章。
平成元年 (1989) 広島県名誉県民となる。自伝「わが人生」(時の美術社刊)を出版。
3年 (1991) 川崎市名誉市民となる。
5年 (1993) 伊勢神宮式年遷宮にあたり「神馬」を制作。11月20日、広島県御調町に圓鍔記念公園・記念館開館。
9年 (1997) 自伝「続・わが人生」(時の美術社刊)を出版。
15年 (2003) 逝去。


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